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執筆者の写真Miyu Kuroki

接続するための身体・四日市

こんにちは!LOCOのくろきです。連投で失礼します🙏

いや、一つの記事にまとめろよ!という話なのですが、どーしてもまとまらなかったので(そして長くなってしまいました)


昨日YouTubeを見ていたら、ドキッとする動画が出てきました。


今年は四日市公害訴訟の勝訴から50年目の年なのですね。


四日市にいる知人のSNSで、現在市立博物館にて四日市喘息と公害訴訟にまつわる展示をやっていることは知っていたのですが、節目の年であることを私はまったく知りませんでした。



引用元/東海テレビ NEWS ONE https://youtu.be/2bmXJnx_qD0


私は四日市で生まれ育ったのですが、

高校2年まで住んでいた部屋の窓から高い石油化学コンビナートの煙突が見えていました。

煙突は空の中程まで丈があって、雨の日も風の日も雪の日も365日休まず先頭からオレンジの火を噴いているのですが、コンビナートには年に一・二回点検の日があって、この日が凄まじいのです。(点検日が近くなると回覧板でビラが回ってきます)


点検日が来ると煙突の火はいつもの何倍も強く燃やされて、夜空がコウコウと火の色になるのです。


そのために、煙突の周囲はなんだか朝焼けのように見えました。空気の匂いはいつもとなんら変わらず、ただ夜空だけが橙に明るいのは天変地異の前触れ的恐怖感もありました。



   写真は四日市ではなく川崎なのですが、四日市も本当にこんな感じ/フリー素材ぱくたそ(www.pakutaso.com)


コンビナートは一晩中明るく、明かりも蛍光灯のような冷たい白い灯ではなくて、鉱石や、蛍やカゲロウのような、やわらかな丸い光が無数に灯っている中を絶え間なく蒸気や煙が霧散しているので、いつでもコンビナート全体が自然と近視の世界のようにボヤッと見えます。


上記の動画内で、九つで四日市喘息によってこの世を去った女の子のお母様が語る言葉に、私はやるせないような気持ちがするのです。

『尚子が泣いているような。(石油化学コンビナートの)光がそう見えた。』







四日市で当時を知る男性にお話を伺ったことがあるのですが、

男性は「当時の四日市は周辺の街に比べて『豊か』だったとおっしゃっていました。

そこに今日も続く四日市という街の苦悩があるのだと思います。


『そのころの四日市は、当時普通家で飲まんかったコーヒーを毎朝家で飲むような生活やった』


当時を生きた人たちの語りやメディアを通して固定化された『イメージ』の1960~70年代は


グングン伸びて行くビル群や鮮やかな化学染料の洋服に満ちた「明日は今日よりも豊かになる」夢のあった時代であり、グッと世の中の流れが早くなって、ドンドン生み出されて行く家電製品も新しい流行も次々「アップデートして行く」のがクールな時代。同時にまだ人と人との情の残る「古き良き時代」


という感じでありまして、同時に現代の我々はその時代に発生した「公害」を学校で教えられるのです。


 

私が強く思うのは、我々は四日市喘息から本当に学んでいるのか?ということについてです。


四日市喘息にまつわる常設展示や文章・声明は数多くあり、それらの中には四日市喘息の今日を「改善」と「排煙、排水処理にまつわる優れた環境技術を今度は他地域に教授する役目を担う街になりました」という点に着地しているケースが多くあります。(小学校の頃社会科のテキストでもそう教えられた)


だけれど着地して、そこが「答え」として受け入れて本当に良いのでしょうか。


確かに数字上、データ上四日市の環境は大きく改善しています。私自身は「四日市喘息」というものに肉体的にも、また、一人の子どもとしては風評的な被害に悩まされることなく成長しました。(漁業や農業に携わる方々は強い風評の中に今日もおります)


だけれども私たちはもっと根本的な「四日市喘息を生み出したシステム」自体について考えるべきであり、そうでなければ何度でも私たちは「経済か命か」という中で誰かの人生を押しつぶすのです。

四日市の「サーガ(歴史)」として

「四日市喘息」と「外国人技能実習制度」は同じ地平にあると思います。


両者ともに 『経済発展のために個人を押しつぶしても構わない』という考えのもとに人権を蹂躙されている人たちがいることが問題なのですが、

この構造の一番の大元、一番の暗いところは、

『一人一人の生活の経済面での向上のためにやってあげている(コンビナート誘致、雇用、操業や技能実習生の斡旋、雇用、管理など)』という思想の延長として『経済発展のために個人を押しつぶしても構わない』という考えが存在していることだと思うのです。(そもそも「やってあげている」ってなんだよ、という話でもあります)


私は四日市喘息と「四日市」を体験した人たち(豊かさを得た人も、苦難を経験した人も、どちらでも無い人も)や四日市という社会自体が 公害にまつわるナラティブを持っているのに、今日の「四日市」にそれらが十分に接続されていないと感じます。


四日市で小中学生だった頃、私の学区は石油化学コンビナートに近い土地でした。

社会科の授業で「四日市喘息」について扱う日の始め、先生の発した言葉をぼんやり覚えています。

「親御さんがコンビナートに勤めている子もたくさんいるだろうから、この話をするのは難しいんやけど、でも決してコンビナートがダメとか、そういう話では無いのです」


私たちは石油化学コンビナートに関わる人たち、勤務する人たち周辺の人たちや誘致した議員の語りを聞かねばならぬと思います。ただあるのは、四日市に巨大なコンビナートができて、豊かになった人がいれば、排煙や排水や風評被害のために苦しんだ人たちも沢山いるという事実です。

(私の父方の家族は東海地方の工業発展のために九州から集団就職で愛知に行った叔母を頼りに一家をあげて九州から東海地方に移り住みました)

 

具体的にこれからの表現、秋田でも横須賀でも四日市でも、どこでもまずやって見たいと考えているのは


①(先日の記事で述べた)「四日市」サーガを「四日市の身体」で語ること

→「四日市」のナラティブ(人とは限らず)と「今ここ」を接続する試み。


②ここまでながーく思考を書いたけれど、それをもっと身体で考えて身体で表現しようよ! ということ。(机の上で考えるだけではヨクナイよね、ということ)


③このプロジェクト専用のサイトを作って、考えていることや執筆途中の「四日市サーガ」の投稿を都度都度してみる。四日市的身体考を動画でしてみる。途中でサブイベントをするのもイイネ! (まずサイトを作って見て、いつ公開するかはわからないけれど……)

 

という感じの計画が今うかんでおります。ちょっと前回の投稿よりも計画が具体的になってきました。

だけれどこれを横須賀でするかはわからないし、もしかしたら一部とか、プロジェクトの途中の動きとしていろんな人と話してみる会とかいろんな会とかでもいいかもーと思っています。(その人その人の「身体性」のルーツを一緒に探るのもいいかも)


お風呂場ステージ化としてみたい! でもお風呂入れなくなっちゃうかも笑 考え中です。


くろき

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