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執筆者の写真Miyu Kuroki

わたしの「四日市」とサーガ

更新日:2022年8月12日


↑岐阜県のお千代保稲荷にたくさんあるドテ煮スタンドの図 


こんにちは。LOCOのくろきです。


暑い暑い〜と人と顔を合わせるたびに言っているのですが、実はあまり暑くないと思っているこの頃。



秋田の暑さなんて四日市(私の故郷)に比べたら全然余裕やに!!!!!!


なーーんてナメていると毎年、秋田で極寒のしっぺ返しにあうのです……

立秋が過ぎてもう冬の気配に戦慄しております。




実は最近「サーガ」と言うものに惹かれておりまして


端的に表現すると、一家や一族にまつわる歴史や出来事を描いた作品のことを言うのです。



一家や一族、と書きましたが、

サーガとは「直線のルーツ」では無くって、


もっとブツ切りのルーツであり、飛び石のルーツであり、曲がりくねったルーツであり、何重のルーツでも、交差するルーツでもあると思います


だって私たちの「ルーツ」とはもっと、捉え難いものであると思うのです。



 

 汚いドブ川の上へ覆い被さるように、夾竹桃がポツポツ咲いている。

 長い日照りがドブ川をじりじり焼くので、風が吹くとわたくしの家まで臭い。夾竹桃は毎年、ただよう煤にも国道の酷い照り返しにも負けずに花をつけて、それはスモモを煮詰めたようなピンク色をしている。古い運河の趣さえあるそのドブ川には時折マムシが泳いでいるらしく、そう聞いたわたくしは学校帰りに毎日ドブ川を覗いたけれども、ついぞ泳ぐマムシのすがたなどは見られませんでした。


 昔々は漁村であったわたくしの町は、かつての浜へ下って行くように格子窓の家々がゴタゴタと続いていて、路地から路地へぴっちりと詰まった家々は隣家と壁を共有しているような造りをしていました。間口は狭く暗く、土間から片側に三畳や六畳ほどの部屋がいくつも奥に続いていました。魚を獲って大いに儲けた時代には、漁師の家と芸妓の置屋と、女性を商う店が入り混じって町内にあったそうですが、やがて女商売の家は「新地」へ移されてゆきました。


 だけれど今や「新地」さえ影もなく、ただそこにはジャスコがあるばかりです。


 

という感じで、最近サーガを書いてみようと試みています。(まだ一直線だけれど)


サーガとは「一族」「一家」の歴史のことであるという解釈もあるのですが、時間、地理を超越した複数の歴史軸が絡まって交差して解けて一つのサーガになると思うのです。



つまり、秋田にいる2022年の私とシベリアに抑留されている1946年のひいおじいさんとが同じ空間に存在する「サーガ」もなんら不思議ではないのです。



時間軸の上にあるサーガがあるならば、身体のサーガもあるのではないでしょうか。

私は私の身体に、私が生活した「四日市的なもの」を見出すことがよくあります。



強い照り返しに耐えながら息を詰めてマテ貝が飛び出してくる瞬間を待つ身体


不景気にあえぎながら来る日も来る日も浜でアサリを掘っていた父の身体


帯状に広がる黒い汚泥をサンダルで飛び越した身体


トンネルの中で「海は広いな」と発声した身体


工場排気を細く吸い込んでは出前一丁の匂いを思い出していた身体(ごま油の匂いがするのです)


おいさんの発する「ブラジル」の”ブ”の薄笑いする破裂音の身体



生活の上に私の一挙一動があるのだとすれば、私の身体の礎は「四日市」にあるのです。


四日市といっても、あくまで私の生活上の「四日市」であることをご留意いただきたく……(四日市はこんなところじゃ無いよ!!!と叱られやしないか……ちょっとドキドキ。) 図はウチの三重のじさま。




その「四日市的身体」の表現で「サーガ」を演じてみたい。


「サーガ」は私のサーガだけれども、私が出てくるとは限らない。(例えば、それは一匹のコウナゴの物語かも)

もつれて解けて交差して溶けてまた復活するような、有機的なサーガがあると思うのです。



私怨は「私」ではなく実はパブリックなものであり、パブリックなものはじつは私怨の集合かもしれない。(そもそも、「私」と「公(またはあなた)」の区別さえ幻なのかも)


「私の」語りは時間軸も、地理も超越した「誰か」の語りなのかもしれない。



そう思うとウキウキ


くろき


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