祝福には困惑と、やるせない人間の宿命のようなものがある。
そして、そのどうにもならない悲しみこそが、祝福の味なのだと思う。
誰も知らず、祝福されない悲しみが、この世にいったい幾らあるのでしょう。
死の淵から逃げ延びて、ホトホトの体でなんでも無い顔をしている、その悲しみは、苦労は、なぜ祝福されないのだろうか。
就職や進学が祝われて、なぜ祝われないことなのだろう。
人間は、どうしようもない宿命を祝っている。誕生日に、初潮。その延長線上に、「生き延びてしまったこと」への祝福があったって、いいんじゃないかと思う。
生まれ出て、祝われる誕生の日。
「女」の宿命を突きつけられるような初潮の祝いは、ある種の屈辱のようでもあった。
「祝い」は絶対的な幸福なんて、そんな明快な代物なんぞでは無く、どうしようもなく、やるせなく、ドン底のようなものであるはずであって、華やかな粉飾なんて一切、悲しみの言い換え語にすぎないなのではないのかしら。
浮かれて、赤い頬でラアラア騒ぐその底に涙じゃ汲みきれない人の世の憂いのようなものがあるんじゃないのかと思う。
みんなで、一種ヤケになって、ゴム毬みたいな若さをボンボンに炸裂させた夜更けにホテル街を通ると、その最上階にボンヤリ灯る明かりがあって、初冬の寒さもあってか、妙にダンマリとしちゃって、人間の業の深さ、延々と編まれてゆく憂いの系譜のようなものを感じて、感傷的な気持ちになってしまったり。
人間の、気持ちの煮凝りのような、怨みのような、そんなものを「アート」とも活動とも言われずにやってみたい。
「祝ぐ(ことほぐ)」と書いて、良い結果を神に祈ることと、そして神に他者を呪うという両面の意味があるのだし、「祝うこと」はいつでも「怨み」と表裏一体なのではないかしら。
怨みの中にこそ人間のよろこびがあって、祝福は悲しみである。ちゃんぽんの、逆立ちみたいであっててんで逆さまではない、そんな人間の世のリズムがあるのではないか。
くろき
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