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執筆者の写真Miyu Kuroki

そう的サバイバルの法



躁である。


なんていったら、邪険にされやしないかとびくびくしている。(書いちゃったけれど)


病人然とするのはいやだ。面倒じゃないかしらだなんて、つとめて明るくふるまっている。

ささいなことが気に障って、カリカリと神経質な気持ちでいるものだから、お酒をのまなきゃ朗らかに

やってらんない。


昨朝目覚めたら、ふっと思い立って歌謡浪曲を拵えようと思った。

躁の勢いのままにできちゃったら気分の良いものだし、案外ぶっ飛んで良いのかもしれない。


「ノンキ症」と言えたらどんなにかいいのになぁ〜、なんて、またカリカリして考えている。

ノンキ症、いいですね。と頻繁におっしゃっていただけるのが希望というか、光明という気さえするのだけれども、「双極性障害です」なんて言ったら、いいですね。私もなりたい。と、この世に言う人があるのかしら。なんて思うひねた自分がいる。


昨夜、夕飯をこしらえていただいている間にこっそり双極性障害のことなんて検索したら、「遺伝的要因」なんて言葉が出てきてついメソメソしてしまいました。


私は双極性障害を不幸だとは思わないけれども、こんな苦しさを味わう人間を生み出してしまってはよいのか、なんて考えてしまう自分がいて、しかしこれも私のエゴなのだけれども、躁や鬱の渦中でグルグル押し流されていると、こんな思いをやはりして欲しくない気持ちが生まれて、なやみはつきぬものである。


昨夜、ごはんをこしらえているメンバーの背中に話かけながら、「みんな何かしらの生活の技術を持っているものですね」と言ったら、一人が「だって生きているのだもの」と言って、その言葉が妙にしみじみ、胸に染む心地なのでした。

私は自炊も、お洗濯も面倒な性質だけれども、生きている上でやはり「技能」はあって、

私の場合、それは躁と鬱の乗りこなしの技能だと思う。


躁も鬱も、なんでもない顔をして振る舞うのも技能であるのだし、死なないのも技能である。


だけれどなんでもない顔で、なんでもないように、辛くないように振る舞うのはキツい。

もっとアルバイト出来るでしょう、もっと仕事に励めるでしょう、だなんて、技能の発揮は目に見えぬばかりに、無理へさらにテンションを掛けてしまうことは恐ろしく、口惜しいものである。

きっと、なんでも無いように見えるのだけれど。


生きてゆく主軸が他者にあるからしんどいのであって、もっと自分に軸足を置いたらよいのかしら、なんて思うけれども、ムズカシイものだ。


ノンキ症ならば、あんまりなやんでも仕方がないのだし、クヨクヨしたとて仕様がなく、つとめて朗らかに過ごしたいものであるのだし、だけれども面倒なのは、暗い心地よりも怒り、憎悪がシミジミ湧いてくるのが手に持て余し、一周回ってブラブラと散歩でもしたいような安寧。


なんてね。



くろき



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