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執筆者の写真Miyu Kuroki

まつりの後で



「あ!キタニワ」は春を連れてくる神様みたいな、正月の朝に突如現れる門つけ芸人みたいな、そんな存在であったのかなと思う。


和歌山の、串本という街の正月。朝、門つけの万歳をしていた。

太平洋の冬はまぶしい。その、サンサンとした新しい年の朝に、春を呼びこむあの晴れやかさみたいなものが、今回の「あ!キタニワ」にはあったんじゃないか。


インドネシアのワークショップにたまたま「参加した」というか、あの現場に「居合わせた」面子が2021年の年の瀬、秋田に集って何かを起こすということが面白い現象で、いい意味で「おかしな」ことでワクワクすることであった。

めちゃくちゃなチャンポンのリズムであるようで徹底した一本の背骨があるような、そして綿密であるようでフレキシブルな、そんな私たちのバランス感覚を「展示」や「公開」したというか、「見せつけてやる」なんて、そんな意気地とさえ言いたいものが空気感としてあった。


それはまさしく、都市のニワトリ・Urban Chickenの逆襲というか。

にじられて、なじられて、ウエスみたいな、ニワ「トリ」なのに飛ぶことを忘れちゃった私たちが、ゲージの中から喉を枯らして叫び歌うような、そんな密かな怨みのメロディーが本会の根底に流れる暗梁なのではないかと思う。


良くも悪くも、若さの癇癪玉のようと言いましょうか、いや、そもそも良い悪いもなくって、善悪さえグニャグニャに溶け合った空間のようである。





私としましては、「LOCO」の10年後が見たい心地にあります。


会期中にメンバーの一人が得意料理のピクルスを振る舞ってくれまして、

野菜の瑞々しさが清しいような浅漬けがなんとも美味しくて、さわやかだったのですけれど、

宴の後の明朝つまんだピクルスの酸っぱく、醸されたような甘みがなんとも格別にしみじみときて、ちょっぴり泣きたい気持ちでさえあったのです。


私たちの10年後にも、そんな愉しみがあるのではないかしら。


私はまだ、さかずきの底にある憂いを知らない。それはそれでさっぱりとして気風の良いような、そんな痛快さがあるものだけれども、清濁併せ飲んだ先に、若さも老いも超越したような、その二項対立さえグダグダに煮込まれたようなものがあるのではないかしら、なんて、考えるのが若いのかも。



くろき

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