妙なところに落ち着くんじゃなく、失敗しちゃおう。なにかキッカケがつかめればいい。
LOCOの姿勢は『スペキュラティヴ・デザイン』[アンソニー・ダン/フィオナ・レイビー]にあった、
”批評的デザインとは、実験的で、やってみるまで上手くいくかどうかわからない。
失敗も有益で、選択肢の一つである。成功例を模倣することが失敗の始まりである。”
という考えを思い出す。
なるほど、今回の展覧会は作品がウンヌン以前に、そのハコが思索的なプログラム。という事で”元八百屋さんで市の形態をとりながら作品を展示する”ことの意味を詰めるのが大事なのか。
作品を置くだけではなく、オルタナス+作品の世界観をつくる。パラレルな世界観を提示して、その世界に存在しうる、暮らしや思想を表現できれば…今回の展示の意味っていうか、ハコが活きるってコトかな。
そのパラレルな世界って、つまり何?
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『 空き家が更に多くなり、人口も更に減少した。
持続可能性という観点から、新居の建設を目にすることはなくなる。
地方では家の価値は著しく低下した。
若い世代は物質的な資産、消費主義を信用せず、距離を置く。
情報や、交流に価値を見出す彼らは、空き家のコミュニティの中で市を開く。
小さな経済圏をつくり、誰とどう暮らすかを重要視している。 …… 』
と、こう考えた時に漠然とした文章しか出てこないのが困りどころ。
なんというか、オーガニックな物を愛する田舎ズキの説教クサさがある。
後半の、交流が~とか。交流とは?具体的に?自分が書いたとは思いたくないキャプションだ。こう、パラレルな世界が理想の話すぎると、自分ごとにならず、妄想の話だね、で終わってしまう。もっとリアルで、自分たちもそうできる、なる可能性のある状況を提示しないと。
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市と住環境の結びつきで思い出されるのは、インドネシアで見た什器の中で眠る家族。 我々にとっては一番パーソナルな印象のある寝床。その上に商品が陳列されている状況は自分の常識の範疇を超えた、キレイごとではない、本当に生きるための生活空間だった。
反対に、最近の日本でのタイニーハウス文化はというと、国のSDGsプッシュの波に併せた、都合のいい文脈として消費されている。”高齢者に向けて小さなスペースで素晴らしい体験を、SDGsを意識して地域材で。。。”とプレゼンすると、国から補助金が通りやすいらしい。そうして、驚きのある実験的な建築から一般化され、個人主義的な側面は消えた。若者のカウンターカルチャーから、高齢者の終の住処へと形を変えている。
生活空間=市の表現。什器とも言えず、家とも言えず、一般化はされていないけど、空き家の中のコミュニティにあるからこの形状になっているんだ、という説得力とストーリーを持ち合わせた物。
ってなんだ??? オマケみたいに眠るスペースのついた、移動販売を想定した何かかな。結局こんなかんじか。もっと彫刻!とか言いたかった。いやいや、まだ無難な感じがする。。。!!!
スゲーいい内容!🤠