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執筆者の写真折出裕也

実家の消滅と、キレイごとを隠すモヤモヤ

タイニーハウスに興味あります!みたいな人に時々質問される。

でも、いがいと適当に答えがち。


『小さいくらし、いいですよね~!』と言われる。

『エコのために素材を~…』とか、『ミニマリストで持たない暮らしを~、良いですよね~!』


とか言われることもある。

スイマセン。環境とか周りの話は、二の次です。


そういわれると、ちょっと嫌気がさして、表面的な話だけして終わりにしてしまうところがある。

あくまでも根は自分主体で、個人主義的にできているので。


ずっとそうじゃいけないかな?と思い、よく聞かれる質問を一度振り返り、しっかり書いていこうとおもう。




Q『タイニーハウスへの興味は、これまでの暮らしがもとに?実家の暮らしの影響は?』


はじめは全然関係なく、小さい家かわいいな~という、見た目が入りで興味を持ち始めた。

その可愛さの半面、内在する実験性や、背景のギャップを楽しんでいた。


今はタイニーハウスという言葉を新しいと思えなくなり、小ささとかサイズ感の自由さは前提に、暮らしをモチーフにどういった表現ができるのか探っている、そんな印象。



実家の暮らしは、タイニーハウスへの興味のキッカケではない。でも、単純なタイニーハウスへの興味が、更に人間の居住についての疑問に発展する、契機の一つくらいにはなっていると思う。



大学進学で秋田へ転居するまえでは、北海道で5人家族で暮らしていた。 実家はというと、1階はLDKに洋室、書斎があり、2階には子供部屋が3部屋、夫婦寝室、ウォークインクローゼット。廊下はずらーっと本棚があり、小説や漫画、繰り返し読んで擦り切れた図鑑や絵本、家族写真のアルバムが並ぶ。



北海道の土地の有り余る新興住宅地に、両親が設計事務所に通い打合せを重ねて建った注文住宅だ。

当時小学生の自分も何も分からずに同行したが、普段ふざけた空気の両親があんまり真面目に打合せをしているので、タジタジだった記憶がある。


ところが、家族間で問題がおこり一家離散、自分が大学2年の頃には実家はもぬけの殻に。


それから暫くして、友人から『折出の家、廃墟みたいじゃん。うんち。』という文字に添えて実家の写真が送られてきた。庭は雑草が茂り、確かにみっともない。でも、うんちはどうかと思うぜ。


好意的に解釈して、心配しての連絡だったのかもしれないが、その家に住んでいた十数年が丸ごと貶されたようで、ひどく傷つき、腹が立った。文句を返信。二度とその文面を見ないよう、思い出さないよう、アプリをアンインストールした。(Discord。再インストールせず。)



十数年の思い出を振り返る場所がなくなる喪失感は、消えないモヤとして残った。これからどうあるべきか考える際の、タイムラインのスタート地点、もしくはどうしたら避けることができたか考える際のゴール地点となっている。






確認だけど、この体験がもとになって、現代のデカい家は間違いだ~といいたいわけではないよ。

作品を考えるうえで、一つのポイントになっているという感じで。

インドネシアでみてきたことや、この経験なんかがあって、理想論的な話がキレイごとに思えて、説教クサくて、嫌気がさすのかもね。


決してこのモヤモヤの正体は、タイニーハウスがどう~とか言って解消されるものではない。

過去の反省は最適解の出ない問いかけで。


”ありえるかもしれないパラレルな暮らし”を考えたいんだけど、この問答は端から見れば ”より良い暮らし” ”丁寧な暮らし” について考えている人、という風にみられることもある。 そういう○○な暮らしは時折り、まるで正解かのように語られるが、ソレも答えの出ない問いかけなんだよ。といいたい。

考え続ける事で、他の人にも疑問を波及させていく。いきたい。

なんていうんだっけね、こういう答えの出ない問いの事。


折出

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