秋野菜の時期も終わり、今年最後の収穫。菊芋が沢山とれた。取れすぎたといった具合。 イモを掘ると幼稚園のころのジャガイモ堀りを思い出す。地中で腐ったイモが超臭いこと。
畑を耕しなおし、来年の準備。 小石を取り除き、ウッドデッキの近くにバラまく。雑草の処理がめんどくさいので、できるだけ石ころを敷いて、来年は楽をしたい。野菜は減らし、一本樹を植えて、穏やかな庭にしたい。焚火台も買ったし。
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来年の準備~とか言ってみたけど、このモチベーションの正体はなんなのだろう。
よく都会から田舎へ移住した人なんかは、土を触るとエネルギーがもらえると言う。ホントか? 確かに花が咲いたり、収穫したときは嬉しい。でも、それくらい。 せっかく土があるんだから、何か植えようかな。はわかる。あとは、草がボウボウだとみったくないから手を入れる。そんなところ。完全に趣味の世界?売ってるわけでもないし。むしろ、自分のエネルギーを土に、野菜に分け与えてると思う。
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ただ、良いのは土をいじっているあいだ、それしか考えない事。世界の情報を締め出して、石ころを拾う事。そんな単純作業が心地良い…こともある。雑草はムカつく。
自分ながら、かなり適当に野菜を育ててはいるが、食べてみるとそんなに悪くない。
個人で始められる自給自足、外部への依存を減らすキッカケである。
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結局モノづくりと一緒で、手を動かしてなにかつくると、それで十分だと気付ける。
必要に迫られているわけではない、ここまで書いて思ったのは、動機・モチベーションは無いこと。 でも、庭で何かできないかな、と思う。これって自然な事で、むしろ、意味とかウンヌンではないのかもしれない。
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アパートに住んでいる間は忘れていたけど、動機がないけど、なんとなくそうしてしまう。
その方がいいと、なぜか感じる。それが自然な気がするけど、なぜしてこなかったんだろう。
今回の展示の形態は、パラレルな世界を構築したいと書いた。
空き家の中で独立した経済を興す。内側での流通をしつつ、外側からも人が来る。空き家経済圏。
その経済圏に、鑑賞者は『客』という立場で参加する。
人間が集まったらこう暮らす方が自然じゃん、このほうがいいんじゃない?と提案するものが、理想的に見えるとは限らない。お金にならなかったり、政治から切り離されたものになるかもしれない。
それは、常識的な視線で見た時に不気味に映るだろうが、生活するうちに忘れていた人間の根源的な欲求が思い出される、そのきっかけになるかも。
『なるほど、それが自然な気がするけど、なぜしてこなかったんだろう。』
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菊芋すごい!もしよかったら持ってきて欲しいです!たべたい!