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執筆者の写真Miyu Kuroki

インディペンデンス・デーに寄せて

 

 令和三年もあと二ヶ月だ。戦時歌謡の時代から、また一歩遠のく心地である。

 YouTubeで往年のスターが、かつて歌った戦時歌謡を再び歌唱する動画を観るとなんとも秋風の吹くような心地がするのはなぜだろう。勇ましい歌詞が勇ましい歌声が、むなしい。

 私は殊に『麦と兵隊』が忘れがたい。息を殺して黙々と進軍する兵士の波の中に一人、満州にいた、そしてシベリアに抑留された曽祖父の姿が見える。むなしいのは戦のその後、戦が奪った曽祖父やその妻や娘、つまり曽祖母や祖母の辛苦を思うからであろう。

 インドネシアのバンドンという街の食堂で、おじいさんが日本語の歌を口ずさむのを見たことがある。『愛国行進曲』だった。話によれば、子どもの頃学校で習ったそうだ。おじいさんはその歌をいつまでも覚えていて、私が日本人だと知るとニコニコしながら「日本の歌」を披露してくれたのだ。


 初めてインドネシアに降り立った日は独立記念日で、町中が華やかな歓声に満ちていた。アベニューを美しく飾る紅白のインドネシア国旗に麗しい電飾の光、遠くでは花火も上がっているようだ。その美しさと言ったら満艦飾みたいな輝きで、胸が躍るような賑わいに、私はホテルに向かう車窓に額をぴったりくっつけて見惚れた。街角の、軒先にいっぱいのホウキがぶら下がった雑貨屋の小さな白熱灯の明かりさえ滲むように美しい。

 私はインドネシアのことを知らなかった。インドネシアはオランダと日本の支配を受けていた。そう知った途端、独立記念日を祝う美しい光の一つ一つが、「日本人」の私に複雑な気持ちを思い起こさせた。果たして私はインドネシアの人たちのように「おめでとう」と言っても良いものか。独立記念日に現れた「日本人」の私を街の人たちはどのように思うのか。その晩はわだかまるような、モヤモヤとした気持ちで眠りについたことを覚えている。

 また別のとき、インドネシアの街を歩いているとちょうど祭りをやっている通りに差し掛かったことがある。その頃は独立記念日を少し過ぎた時分で、賑やかな方向へ歩んでみると、インドネシア国旗の装飾とともに迷彩のジープや銃器なんかがズラリと並んでいた。勇ましい音楽が流れている。私はなんとなしに不安な予感がして、そばに貼られたポスターの知っているインドネシア語を拾い読んでみると、どうやら独立を祝うイベントであった。私は途端、すれ違う人々一人一人の顔色がひどく気に掛かる。私は「日本人」で(多分)あるのだ。

 雑踏の中を、軍服を着たおじさんが歩いてくる。私はサッと逃れようとした。その時パッと目があって、おじさんは英語で「日本人?」と尋ねた。「日本人です」と答えると、おじさんは笑って、大声で仲間を呼んだらしい。すると、日本兵の仮装をしたおじさんが現れた。私はギョッとして、「日本人ですか」と日本語を発した。日本兵のおじさんは大笑いをしながら「I can′t speak Japanese」と言った。おじさんは一緒に写真を撮ろうと私を手招きをしたのだけれど、なんだか私は、よその家へ上がったような心地悪さであった。写真に収まった後、お辞儀をして祭りを後にしたのだけれども、洗濯機でモミクチャにされたような変な心地だった。

 祭りのこと、日本統治時代を生きたインドネシアの人々、日本軍と戦い命を落としたインドネシア人青年たちの慰霊碑、シベリアに抑留された曽祖父のこと。走馬灯のようにめぐるイメージが、私の心を「分からなく」させる。解答などないのだし、あってはならないのだけれども、ただ黙々と進軍する兵士の波の中に見出した、一人の「私のひいおじいさんである男性」の人生があるように、その時代の船に乗り合わせた幾万幾千の人びとの人生が、悲喜の機微がただ、数字となって私の目の前にある。

 今日を生きる私に、戦はむなしい。だけれど、インドネシア独立のため命をかけて戦った人々は英雄として、その勇姿は絵になり立像となり人々の心にある。「戦争はいけない」というのが私の心の芯にはあるけれども、戦争という手段で覆されたものにも、もしかするとさまざまな側面があるのかもしれない。

 だけれど、呼べど想えど私のひいおじいさんは戻ってこない。祖母は、「私にお父さんさえあったらなぁ」と口惜しげに言った。

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