昨日、私の精神に超ド級の落雷がありました。
この記事は宗教に関わるお話、デリケートな部分であります。その点ご考慮いただきまして、読み続けるかのご判断をいただければと思います。
書こうか迷ったのですが、正直に書こうと思います。
イヤ…実はLOCOの会議のときも心ズキズキしたいたんです。
本当なら上手く切り替えたいのに、比喩じゃなくて胸が痛い。
それぐらい私としては悲しい、というかやるせないような、辛いこと。
この頃ずっと信仰について考えているのですが、
私の胸にしっくりとくると思っていたイスラム教の、尊敬していた方が
「多神教徒は地獄に落ちる」という旨を発言なさっていて、
私は雷に打たれたようにショックだったのです。
宗教には宗教の教えがあるのだし、私はそれを否定する気は全くありません。
そうする資格など、どの人間にもないことだと思っています。
だけれど神道を信仰する私としては、具体的な信仰の形を写真で例に出されてその祈りの形を否定されたことが、非常に悲しかったのです。
宗教というのは、人間の一番根っこに関わる、生きるための地図のようなものなのではないでしょうか。
いま私自身信仰について迷っている身であります。
私の家は神道&仏教の家でありまして、
私は辛いとき、嬉しいとき、日頃の感謝や弔いを神仏に祈って生きてきました。
氏神さまのお社、故郷の浜にあった弔いのお地蔵さま。通学路の観音堂。辛いとき、大人から教えられた仏典の教えに心支えられたことも数え切れません。
ちょっと踏み込んだ話になりますが、
私がイスラム教を学ぶのは、希死念慮から自分をこの世に引き留めるためでもあります。
そして、時に目につくもの、耳に聴くもの、それら全てに瑞々しい喜びを与えてくれるイスラム教の教えに救われてきました。
そして、生涯を共にしたいと考えている人はイスラム教徒です。
その人の示す条件は、ともに歩むならば私が改宗をするという条件でした。
いま宙ぶらりんで、身が二つに裂けてしまうような心地。
神さまを信じなくても、幸せに生きて行けると思います。
だけれども、私は神さまを信じるという選択に心の踵が向いています。
私は、例えば種子が青い芽を吹く瞬間、そこに神さまはいらっしゃるのだと思うのです。
私は今後、どのような選択をするのか皆目検討がつきません。
ただ、私の実家と同じような信仰を持つ方々、そしてイスラム教徒の方々に、なるべく沢山お会いしにいこうと思っています。
生の声をお聞きしたいのです。
忘れ難いことがあります。
インドネシアのスラバヤ市を訪れた際、イスラム教徒の仲間が礼拝に行っている間、一人街角で待っていたことがあります。
そのとき、イスラム教の礼拝用品を扱う店のおじいさんが、日差しが暑いだろうと店のひさしへ招き入れてくれました。
仲間が礼拝から帰ってくるまでの間、私とおじいさん言葉は通じねど、おじいさんは私のスケッチブックやそこに書かれた日本語を見て様々に話しかけてくれました。そして次第に、おじいさんの知人らしき礼拝帰りのムスリムの方々が数人私の周りを取り囲みました。
そのとき、唐突におじいさんが私の腕を指さして「それは何?」と問うのです。
私の手には、父が旅の安全を祈願してプレゼントしてくれた数珠がありました。大きなプラスチックの玉を覗くと仏様が見える仕掛けがありまして、旅の最中肌身離さず身につけていたものです。
私はドギマギとしました。どう説明したら良いのか。礼拝用品の店で、礼拝帰りの方々と仏様の数珠。なんだか気まずいような、そんな思いでおじいさんに身振りで、数珠の大きな玉を覗いて見てよと伝えて数珠をお見せしました。
おじいさんは数珠の玉を覗き込むと、笑顔で「ええ〜!」と感嘆の声を上げました。
そして数珠は変わるがわる、礼拝帰りの人たちの間で覗かれて行きました。
その空気感。
あのような感じで「あなたの宗教と私の宗教」があることはできないのかな。なんて思ったり。
もしそうできない神さまの教えがあるのならば、人間の私が何かを思うのはできないけれど。
かなしいような、つらい気持ちでいる。
まとまらないけれど、生活の中の手触りある実感として書いてみました。
黒木美佑
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